昭和五十六年六月二十五日 朝の御理解
御理解第五十四節「徳のない間は心配する。神徳を受ければ心配はない。」
昨日、現教主金光様の歌集を佐田先生に読んでもらって居りましたら、こういうお歌がございました。
プラス面言わず、マイナス面のみあげて他を責め、非難しておりとありますね。“プラス面言わずマイナス面のみあげて他を責め非難しており”というのです。そうですね、どんな事にでもマイナスがあるなら、プラスがある筈ですからね。本当にお礼を言わなければならない事に不平不足愚痴を言って居る場合がここでお取り次ぎさせて頂いて、そりゃああんた反対にお礼言わんならんじゃないのと言う事に涙を流して腹を立てている人がありますね。そりゃ反対にお礼言わんならんじゃんのと、私は今日の御理解の神徳を受ければ心配はないという事はね。神徳を受ければ腹の立つ事はなくなる、悔やまんですむ為なのだ。
信者を取られた、取られたのじゃない、神様が取り上げなさった。こりゃあ私の信心がもう一段と進まなければとそこから精進する事によってです。この場合はそこから参って来た信者、勿論、参って来なくなりましたけれども、二度目に参って来た時に、此の頃、内の先生は朝の御祈念に出られるようになりましたと、こう言うのです。だから朝の御祈念にも出て一生懸命御祈念して下さりゃ信者が離れる筈はないのだけれども、わざわざ遠い合楽まで来んでもよいのだけれども、その取られた腹がもやもやしたもんだから、やっぱり神様へ向かわれたんですね。そして一生懸命朝の御祈念に、してみると、合楽はまぜくったのでも、取ったのでもない、おかげであったと、マイナス面だけを言っておるけれども、そういうプラスの面もあった。そしてよくよく考えてみたらマイナス面と思うておったその事こそ神愛であったという事が分かるでしょう。そういう事が分かってくるという事が神愛を受けていっている証拠です。
だから、人が残念無念というて腹を立てている時に心の中にお礼が言えれるような心。人が例えば、もう本当にもう心配、夜も眠られんようにあるというて、心配しておる事がそれこそね、神様にお礼を申し上げるより他ないとお礼の心が頂かれるようになるという事。そういう言うならば、道理を合楽理念は説きます。だから皆さんがだんだん分かっていかれて、それを成る程成る程と合点して確かなものにしていくという事は、そのままお徳を受けていくという事になるのです。
この教主金光様のお歌は言うならば、プラス面を言わず、マイナス面だけを言う、そして人を責めておるというお言葉ですけれども、本当言うたら、そのマイナス面と思うておる所も神愛である、おかげである、これでお徳を受けるんだというふうに分かった時が、もっと本当な事だと分かる。合楽ではこの辺を説きますね。ですから、それを成る程々々と皆さんが合点していって、体験を積んでいって、成る程この世にはね、難儀とか困ったとかというような事は無い。皆神様にお礼を申し上げる事ばっかりという所にね、心配は無いというおかげにもなってくる。ね、不平は無い、心配は無いねというような、いうなら世界を目指させて頂くという事が信心なんです。神様が願うておられるのはそれなんです。昨日は、北野の関さん所の宅祭でした。宅祭の時にゃいつもここを四時半からこの奉仕を終わってから出かけますから、丁度一時頃に風呂を沸かさせます。久富先生と繁雄さんとお二人の奉仕を受けてお風呂から上がらせて頂きました。お風呂には入ると非常に体が疲れるんですね。それでまあ本当にあのう風呂から上がってきついなあと思うて、そのままベッドの上にこうおおなかしに(おおむけの意)なっとりましたら、早速久富先生が二、三十分ありますから、しばらく御用さしてもらおうと言うて左の足を籾み始めなさりました。そしたら繁雄さんが見えてそしたら右の足を揉んでもうこんな気持ちのよい事はないです。風呂から上がって、言うなら湯だれしておるとですからね。それを誰よりも少し湯だれがきつい訳です。私の場合はそれをこう揉んで頂いとる。一寸喉が渇くからたしか冷凍室にあのチョコレートのあの氷、いわゆるアイスキャンデーでしょうかね、が確かある筈だから繁雄さんそれを出して来て下さって、まあそれを頂かせてもらいながら、足を揉んでもらって有り難いなあ、本当こげな勿体ない事でよかじゃろうかと思わせて頂いとりましたら“夢の万化(華)鏡”と頂きました。確かにあれはね、テレビで何かコマーシャルやってますよ、その言葉が。と同じ夢の万化鏡という事を頂くんです。皆さんどういう事だと思いますか。ね、それこそ夢の中に出てくるような万化鏡というのは、いうならば、もうあらゆる角度に化していけれる、化していくしかも夢というのですから、もう夢にも思わなかったようなおかげというふうにも頂けるでしょう。
冷たい物が欲しいなあというとこに、いう時に冷たい物があり、辛い物が欲しいなあという時にゃもうそこまで行きゃ辛い物がある。いやここまで持って来て下さる、はあ体が今日は少し疲れたなあと思いよると、右の足は私が揉みましょう、左の足は私が揉みましょうというものがそこにある。ね、ははあ、こういうおかげの状態を夢の万化鏡というのだなあと思うて、いよいよ有り難い思いでおかげを頂きました。だからね、いうならお徳を受ければ心配は無い。お徳を受ければ不平もなくなる、不足もなくなる。いやマイナス面と思うとった事も神愛であるという事が分かるという信心がいよいよ身について来た時こそ御神徳を受けた時だと思う。
ね、そしてなら、御神徳を受ければどういう事になるかというと必要な物が必要に応じていや人間の幸せの条件の全てがこれに足うてくるね。冷たい物が欲しいと思えばそこに冷たい物がある。そこにならどこまでかちょっと買いに行ってくれんのと言うこつがいらん。もう向こうから寄ってくる。はあ疲れた、と長うなっとりゃ左の足は私が揉みましょう、右の足は私が揉みましょうという人がそこにある。それこそ、夢のような極楽のようなおかげの中にあってお礼を申し上げさしておったら、夢の万化鏡という事を頂いた。あらゆる意味に有り難い方へ有り難い方へと変化していくというのです。勿論その信心が小さいと信心から大きな信心。あ小さいささやかな所からもうそれこそ限りない大きな徳にそれが育っていくという所に一生が修行じゃという事にもなってくる訳ですけれどもね、皆さんもう腹が立ってたまらんとか、心配でたまらんというのは、まあだまあだ信心が足りんのだ、徳を受けていない証拠だと思うて、そんならお徳を受けていく為には、合楽理念はここん所をどう説くか、どう説いてあるかという事を頂いて、それを実験実証していく中に、積み上げていく徳という事になってくるのじゃないでしょうかね。 どうぞ。